2006年11月27日

幕末の会津の決断

会津の藩校で当時は一番学びの館であった日新館に11月25日に行って来ました。有名な若人の切腹で悲劇でした。
自決した潔さが美しい話と語られていました。
戦闘絵が掛けられていました。
日新館の学問の神髄は孔子の論語でした。
子供の頃から「ならぬことはならぬものです」は有名で、人として約束したことは教えです。
儒教と武士道は良かったけれど、幕末の時代が変わろうとしてる精神の時は儒教と武士道では「悲劇の美学」にならざるを得ないのでしょうか。
学問の中心が蘭学(オランダ)であれば別の結果になっていたかもしれません。

日本で最高な学問をしていたと言われてる日新館でも幕末の激動期には学問は意味をなさなかったようです。
当時の武士道価値観では判断には非難が出たことと思われます。

勝海舟が咸臨丸で太平洋を横断しアメリカサンフランシスコへ渡航したのは有名な話です。
幕末の会津に勝海舟がいたら白虎隊の悲劇も起こらなかった気がします。
新政府の圧倒的な武力で会津は負け戦になりました。
全員が自腹を切る悲劇になりました。
せ細った下北地方に強制的に土地替えをさせられました。
旧藩士家族を追い込んだのは,下北の地は寒冷のみならず,その大地が極めて農耕には不毛地帯であった.

会津藩士の無念とは何か。
討幕派によって“朝敵”の烙印を押されたことだ。
会津藩は朝敵どころか孝明天皇から最も信任を得ていたという。
歴史の中で勝てば関ヶ原の戦いで「勝てば官軍、負ければ賊軍」、260年の松平の世に慣れた松平容保とその藩士が忘れてしまった悲劇を味わいました。
藩主・松平容保(まつだいらかたもり)は誠実で、まじめで、まさに、主君に対する忠誠心を何よりも重視した当時の【武士道】の具現者であったと思う。
複数の人脈を生かして、とことん相手と交渉するという得手ではなかった。

 新しい開国の時代に、頑固に反対し続けた結果、時代に取り残された悲劇があるようです。現代の教訓にしたいですね。
posted by クリオ at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | ビジネス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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